日韓合意 「日本が性奴隷を認めた」との認識が海外拡散


http://www.news-postseven.com/archives/20160223_384250.html?PAGE=2

※SAPIO2016年3月号
の記事の紹介

ニュースポストセブンのWEB記事ですが、相変わらず10年ほど前から何ら変わらない理屈には辟易します。


「しかし、改めて指摘するが、慰安婦は戦時下の「公娼」であって「性奴隷」ではない。また、朝鮮半島や台湾では軍など公権力による強制連行は確認されていない。」

確かに朝鮮半島での公権力による(暴力的な)強制連行を示す「公文書」は当然確認されていませんが 、
公権力によって強制され、連行された「証言」は多く記録されています。


また戦時下の「公娼」とはどういう存在を意味するのか?
戦時下という前提に何がしかの意味を含ませているのは何故だろう?


南支派遣憲兵隊憲兵上等兵の著作からの引用


「では彼等慰安婦の稼業状態はどんなものであったろうか。…稼業許可規則も、あいまいなものであった。有夫の婦人と、
十五歳未満以外の女は例外なく許可された。未成年の場合は、親権者の同意書とか、戸籍抄本が必要となっていたが、戦地外地という特殊事情から殆ど省略されていた」鈴木卓四郎「憲兵下士官」
p60・61)1974年
日韓で慰安婦問題が表面化する以前の出版です。

このように「娼妓取締規則」に則らない、国際条約にも違反した慰安婦のことを
SAPIOは戦時下の「公娼」と呼ぶのでしょうか?




慰安婦がみんな「公娼」 だったという確たる「公文書」は確認されていません。
一部の日本人慰安婦の「証言」 や将兵の「証言」しか残されていなのです。

それなのに改めて断定的に
「公娼」であったと言うからには新たな証拠が発見されたのでしょうか。
勿論記事にはそういった類の証明はされていません。
単なる都合のいい思い込み主張であって、各国の記事論調を否定することはできないでしょう。

当時の内地でも違法な徴募を示す「公文書」が残されています。

ましてや朝鮮や台湾においては多くの未成年者が南方の戦地へ移送(海外渡航)されています。
「公娼」なれば21歳以上の女子しか海外渡航できなかった筈です。

当時も日本は国際条約を批准していたから、

(植民地=併合地内での公娼は英国と同じく年齢条件の条約内容を留保していたが)
未成年の海外移送は条約違反です。移送手段は日本の船舶や日本の車両です。
他国の状況はともあれ国際的に非難されて当然です。

そもそも軍は慰安婦の身分や保護を定めた法体系を整備していません。
まさに軍の独断であったのです。
法が存在せずに慰安婦は「合法」といったいった理屈は成立しません。
当時の国内法や国際法に違反していなければ、「当時の法には違反していない」と言えるでしょうが、海外移送された慰安婦が「合法」とは日本語の使い方としては不適切でしょう。
公娼を定めた「娼妓取締規則」は日本(内地)だけの法律です。



 
大多数は自らの意志で働いていた。しかし、そうした事実に触れている記事はほとんどない。」

という自らの意志で働いていた事実があったとしても、大多数だと確認できる証拠は見つかっていません。そりゃ記事として書けないでしょう。

むしろ多くの慰安婦や日本人将兵の証言記録だけでなく、米軍の捕虜尋問調書49号でも703人の
朝鮮人慰安婦はほとんど騙されていたという内容の記述があります。

まあ前借金を受け取った親に「結果的」に売り飛ばされた事を認識した慰安婦が、
自らの意志じゃなくて家族もろとも「騙された」と証言したかも知れないが、リアルな手口が記述されている以上、それらを否定しきれないでしょう。





実際、1944年に米・戦時情報局(OWI)が作成した記録には、「接客拒否の権利も認められ、外出の自由も保障されていた」と記されている。

これなんかは所謂「いいとこ取り」の歪曲であって、「外出の自由も保障されていた」という記述は全くないウソです。
"freedom of going out"なんてどこに書いてあるのでしょう。
外出は"allowed to"として許可制だったことが記されています。


許可制は届出だけでは法的効力が生まれません。仮にすべての申請を許可したとしても、許可という権力行為が必要である以上、当時の法律と大審院判決に違背するものです。ましてや「自由」なんてどう解釈しても出て来る訳がありません。


過去エントリでもそれを指摘しています。
慰安所規定送付ノ件 1942年11月 軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所

では「慰安婦外出の厳重取締」と記されています。



「慰安婦の外出は自由であった」福岡良男「軍医のみた大東亜戦争」p139
との証言もありますが、全慰安所で外出の自由があったとは言えません。

なぜなら多くの「軍慰安所規定」では外出は厳禁とか許可制とか限定地域のみ許可とかの規定が記されています。

また
福岡氏の同著書には

「どうして慰安所で働く気になったのか」
「ニコラスは喫茶店と言いました。一日三度、肉と魚でご飯が食べられ、お金のほかに、洋服がもらえるところと言われました」
と怯えるような態度で重い口を開いた。
「ニコラスが恐いのです。ニコラスは、もし逃げたら憲兵につかまって殺されると言いました」p136
インドネシア人の御用商人ニコラス・タンブブンは慰安所の女性集めもしていた。

「外出の自由」も、どの程度か疑問です。 

「終戦後、IM部隊の慰安所の慰安婦に主計から沢山の軍票と布地が与えられたが、出身地には帰れぬ女性が多く、哀れであった」p176

との記述もあります。
(日本軍兵士や軍属は敗戦により軍票はただの紙切れと認識していました)





SAPIOはまた「1944年の戦時情報局の記録では・・」と言う(慰安所経営者と思われる)証言(主語がないのであやふやな記述)を基に「慰安婦は将校より高収入であり・・」としていますが、後の1945年のATIS米軍調査記録120号ではミッチナの「慰安所経営者の証言」と明記して「慰安婦は月売り上げが最高1500円、最低300円、最低150円を経営者に支払らわねばならない規則だった」との証言が記録されています。

即ちどちらが信憑性があるかといえば当然主語(キタムラ)のはっきりしている後者の方でしょう。

150円を最低払わなくてはならなかった規則は、慰安婦がいくら体調が優れなくても勿論病気であっても最低月100人の兵を相手にしなければ手取0どころか借金になるという事です。
しかも天引きの諸経費を考えると、最低その倍の「仕事」をしなければなりません。
「性奴隷」ではないとなれば、その規則をどう説明するのでしょう。


しかも1944年の調書には「慰安婦は生活に困窮した」とも書かれてあります。



また記事は「毎日40人の日本兵を相手にさせられた」という元慰安婦チョン・オクスンさんの証言を否定していますが、

慰安婦は将校より高収入であり・・」というなら実際に慰安婦の手元に入ったか別にして月1000円を得ようとするならば、慰安婦は売り上げの約半分が荒取り分という規定を基に計算すれば、月2000円÷1.5円≒1330人以上、即ち毎日休みなしに44人以上の兵を相手にしなければならず、証言の否定はできません。
下士官や僅かな将校を相手にして多少売り上げが上がったところで、生理休みを考えれば大きく違いません。

SAPIOが指摘した「1944年の戦時情報局の記録」には
「ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた」という記述もあります。
同記録にある1500円を売り上げるには(同記録記載料金、兵1.5円
を基に計算すると)1500÷30÷0.75(規定の半額)=66人/日となります。
つまり料金の高い何人かの下士官も相手にしたところで、間違いなく40人以上という試算になります。


記事の主張は明らかに矛盾しています。



本質的には計算上の理屈でなくて実際に慰安婦が「高額を得ていたか」が重要ですが、「アメリカ戦時情報局心理作戦班日本人捕虜尋問報告 第49号」の一節を都合よく解釈しているに過ぎず、記事が主張する確たるエビデンスは全くありません。