「特要員と言う名の部隊」(元海軍中尉 重村賞)を記した重村氏の話がネトウヨによく引用されています。

 「彼女達は大体当時四、五千円の前借金によって前線に赴いたが、契約期間の標準は1ヵ年位であった。これを早い者は僅か三ヵ月普通六ヵ月位で返済したということであるから、その過重な労苦は到底われわれには想像出来ない。」
誰からかの伝聞か想像でしょうが、例によって検証してみましょう。

navy

上文書は海軍の慰安所規定1945年当時のものです。「松ノ家」という下士官・一般兵専用慰安所の料金が規定されています。

利用料金は兵2円下士官3円とありますので、1日26人対応として、兵14人下士官12人※と仮定します。
1日の売り上げ64円、慰安婦取り分は前借があるので40%の25.6円 1ヶ月(30日)で768円
毎日26人と「過重な労苦は到底われわれには想像出来ない」状況を半年間も続ける事ができるとはとても考えられません。


ラバウルの日本人慰安婦の話では
「その頃(注:ミンダナオ島のタバオにいた時)は、現役の若い兵隊さんばかりで一日7、8人が限度、楽じゃないけど体を悪くすることはありませんでした。半年ぐらい働いて、 去年の10月末にこのラボウルに来たんです。ここでは、大きな部隊(38師団<名古屋>)の専属になって、とても忙しかったんです。毎日朝から12、3人もの兵隊さんの相手をさせられてお金にはなりましたけど、辛いんですよ。それで、辛いというと、「最前線の女は、一日30人もの相手をするのに、お前たちはなんだ」と叱られるのです。でも30人なんてとても、せいぜい20人がやっと、1週間も続いたら体を悪くしますよ。」「青年将校と慰安婦」谷川美津枝著

想像も出来ない「過重な労苦」が真実というのなら慰安婦が性奴隷状態におかれた確かな証明になります。



それでも、もし出来たとしても合計4608円くらいです。
借金返済(元金)5000円は半年で返済できません。ましてや3ヶ月で返済とは到底考えられませんね。
しかも1945年以前は陸軍規定と同様に兵は1.5円だったとしたら、半年では4100円です。

利息や天引きされた生活費を考えると1年では多額の貯金もなかなか難しかったのではないでしょうか?
まあ仮に貯金できても軍票ですから、額面通りの価値は当然ないですね。

それにしても1年契約で4000~5000円も貸す業者が本当にいたのでしょうか?
話の信憑性が大きく疑われます。

日本人元慰安婦の証言 「日本人慰安婦」2015 から抜粋

鈴本文(当時18歳!) 1942年トラック島 前借金 2300円業者の説明「軍が借金を肩代わり」
島田美子仮名(39歳) 1939年満州          1000円        「軍は嘘をつかない」
笠原フジ(37歳)    1937年上海          1000円               「慰安所が軍直営」
水野イク(43歳)    1943年パラオ         2000円



しかも重村氏は次のようにも述べています。


「民政部関係の従軍文官や報道部関係の従軍班員は、時問的にも経済的にも恵まれていたので、彼女達を独占する機会もあり、物議をかもす中心となった者もいた。しかし一番ちゃっかりしていたのは、彼女達を直接管理する立場にあった特権階級がいたことである。
配給や移動を取扱う者が絶対の権能を有していたことは、何処の社会でも、何時の時代でも同じことだった。」

ようですから、特権階級によって慰安婦が半ば「私物化」されていたとすれば、彼女らの稼ぎも計算どおりの額には到底及ばなかったでしょう。 

このような「慰安婦は高給取だった」という話もじっくり考えると、矛盾が露呈してきますね。 

※10~17時(7時間休み無) 兵利用(30分)14人、17時~24時(7時間-休憩1時間)下士官利用12人


 ウヨはまた高給説で次のような文を引用しています。

吉原で10年暮らした高安やえは、「戦地へ行けば10倍稼げるし・・・・稼いだら内地に帰って商売を始めようと考えてラバウルへ・・・・一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している(高安やえ「女のラバウル小唄」『続戦中派の遺言女性版』櫂書房1979年)。
「慰安婦と戦場の性」秦郁彦 P392

しかしこの内容は慰安所では全くなく、軍に売春を黙認されていたラバウルの「小料理屋」の例です。
現在の大阪飛田にあるようなものです。しかも将校がおもに利用していたのです。

秦郁彦氏はいかにも慰安婦が高給であったと錯覚させるための誘導として、原文トリミングと”
一人5分と限り”という原文にない加筆をしているのです。



原文
「(そこでシンガポール、バンコク、海南島、マニラと移り)最後はラバウルだった。ラバウルが一番稼ぎになったし、面白かった」
「私はそこで××という小料理屋のおかみの代理みたいなことをやって、女の子たちの監督もやっていたんです。もちろん私自身も体を売ったわよ」
「××は海軍専用の小料理屋、といっても目的は女よね」
「飲んでいるうちに手をひっぱってちょんの間をやるの。そして終わると20円か30円くらい握らせて、また仲間のところへ行って飲むのね。すると今度は別の若い将校さんが手を握って。だから一晩に200円や300円稼ぐのわけはなかったわ(注・当時大学を出て初任給が80円か100円だった)」


また秦郁彦氏は高給説をでっち上げるために”高安やえ「女のラバウル小唄」”をインチキ引用していますが、前文章のあとには以下の文が続きます。

「あなた、女が戦地に行って、汗くさいけだもののような男たちに体のすみずみまでなぶられて、嬉しがるとでも思うの。
みんな、お金のため、貧乏で食えないから、じっと歯を食いしばっているんじゃないの。あなたは男性だからわからないでしょうが、女の体は、生身なのよ、機械じゃないのよ。その生身の体に、飢えた男たちが50人、100人と続けざまにさいなんできてごらんなさい、どうなると思う。
もう真赤にはれあがって、傷だらけになって、足なんか閉じていられない、歩くのだってガニ股でやっとなのよ。
それでも翌日はまた男に抱かれなければならないと思うから、冷たい水で一生懸命ひやして、涙をぼろぼろこぼして、私、朝鮮の女性たちが、そうやってお互い助けいたわりあっている風景を何度も見たわ。
そんな時、私は女ってかなしいなァって何度泣いたかしれません。」 

秦郁彦氏は肝心の慰安所の様子を紹介していません。